京名物「幽霊 子育飴」
- お食事
京名物「幽霊 子育飴」
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みなとや 幽霊子育飴本舗 京都市東山区松原通東大路西入ル 075-591-6005
「六道珍皇寺」の門前に一軒の飴屋があった
ある夜、表の戸を叩く音で出てみると青白い女が一人、「えらい夜分にすみませんが、飴を一つ売って頂けませんか」と一文銭を出して言う。次の日も又その次の日も、同じように一文銭を出して買っていく それが六日間続いた。
「あれは只者ではない 明日銭持ってきたら人間やけど持って来なんだら人間やないで」
「なんでですねん」
「人間 死ぬときには三途の川の渡し銭として銭を六文 棺桶に入れるんや、それを持ってきたんやないかと思う」
「人間 死ぬときには三途の川の渡し銭として銭を六文 棺桶に入れるんや、それを持ってきたんやないかと思う」
七日目、女はやはりやってくるが「実は今日はおアシがございませんが、飴をひとつ分けておくれやす」と言う。
「よろしい」と、銭なしで飴を与えてそっと後をつけてみると 二年坂 三年坂を越えて高台寺の墓地へ入って行く。そして、一つの塔婆の前で消える。掘ってみるとお腹に子を宿したまま死んだ女の墓中で子が生まれ、母親の一念で飴で子を育てていたのである。この子、飴屋が引き取り育て、後に高台寺の坊さんになったという。母親の一念で一文銭を持って飴を買うてきて、子どもを育てていた それもそのはず、
「よろしい」と、銭なしで飴を与えてそっと後をつけてみると 二年坂 三年坂を越えて高台寺の墓地へ入って行く。そして、一つの塔婆の前で消える。掘ってみるとお腹に子を宿したまま死んだ女の墓中で子が生まれ、母親の一念で飴で子を育てていたのである。この子、飴屋が引き取り育て、後に高台寺の坊さんになったという。母親の一念で一文銭を持って飴を買うてきて、子どもを育てていた それもそのはず、
「鬼太郎の原点」
1933年から1935年(昭和8年〜10年)頃にかけ、民話の「子育て幽霊」を脚色した 伊藤正美作
1933年から1935年(昭和8年〜10年)頃にかけ、民話の「子育て幽霊」を脚色した 伊藤正美作
「ハカバキタロー 墓場奇太郎」という紙芝居があった
1954年、紙芝居貸元である阪神画劇社と作者契約をしていた水木しげるは同社社長、鈴木勝丸に「ハカバキタロー」を題材に作品を描く様 勧められ、オリジナルの紙芝居を仕立てた これが鬼太郎シリーズの原点(飴を買いに来ていた母親から生まれた子供が鬼太郎、と言う設定)Wikipediaより
「六道珍皇寺」(ろくどうちんのうじ)
http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0308/mm.htm