3400形と同時に西部線(旧名岐鉄道線)にも流線型車両が登場した。
大きく垂れ下がった屋根や半円形に傾斜した全面等の独特の風貌に加え、全面正面から側面にかけて幕板部分に髭をイメージさせる三本の白線が入れられた事から「なまず」の愛称を持つ850形である。しかしこの誕生には謎が多い。
昭和12年(1937)汎太平洋平和博覧会を睨んだ西部線の車両増備は3400形と同じく、昭和11年6月に決定している。しかし、この決済書には西部線用として 附随客車6両とあるだけで電動車の計画は無く、また東部線用の様に流線型の文字も見られない。
それが同年9月の車両新造の申請時になると流線型電動車モ850形が2両、流線型制御車 ク2350形が2両、普通型制御車ク2300形が2両と変更され、流線型車両としての製造が打ち出されている。この間に社内でどの様な論議が行なわれたのか、そして何時 流線型とする事が決定したのか。残念ながらこの辺りを説明出来る資料は残されていない。
以下、残された資料からこの経緯を探ってみたい。
昭和12年の増備車は800形への連結を前提に計画された。800形は西部線の特急用車両として、昭和10年 4月の名古屋〜岐阜間の直通運転に合わせ名岐鉄道により新造された18m級車体の両運転台、2扉固定クロスシートのボギー車である。
外観はゆるやかに曲線を描いた正面妻板が優雅さを感じさせ 曲率の小さな屋根と全面、窓を大きく開けられる様にした広い妻板部分の形状や ES系制御器とTDK528電動機を用いる AL制御方式は、吊り掛け式駆動の最後の新製車である 3900系まで引き継がれ、名鉄車両の基礎となった。
800形は名岐間直通運転開始に両運転台電動車5両 (801〜805) のみが竣工しただけで、翌11年3月に増備車として5両 (806〜10) が加わり 計10両となった。制御車としての増備はここまでの新製車が全て電動車であったことから、計画されたものであろう。上記決済書と時を同じくして、西部線用車両の発注先として800形と連結する為、同じメーカーである日本車輌としたい旨の決済書も残されており、ここにも電動車の文字は無く制御車6両と記されている。
ではこの制御車はどの様な仕様で計画していたのだろうか?
発注を受けた日本車輌では昭和 11年6月にこの制御車として2種の図面を制作している。一つが前面を流線型にした制御車、もう一つが800形を片運転台とした一般形の制御車である。この時点ではどちらを新製する予定であったのか、あるいは一部の車両のみを流線型とするつもりであったのか、わからない。
しかし8月に入ると上記流線型制御車を電動車化した図面が制作されている。
さらに予算は制御車分しか確保していないため、その新造に辺り802.803を制御車化して、電動機などの機器を転用する事も決定している。こうして9月の新製に至るが、図面の描かれた時期から推察すると6月の車両新造の決済後、かなり早い段階で2両の流線型電動車の製作が決定したと考えるべきであろう。
当時 名古屋鉄道の車両設計は合併直後で 旧名岐系と旧愛電と別れていたと言う。名岐系は地場資本が中心である事から、名古屋気質を受け継ぐ保守的な体質であったのに対し 愛電系は電力資本も入り投資を惜しまず最新の技術や設備を率先して導入したと伝えられている。
東部線に斬新なデザインで、時代の先端を行く流線型 3400形の新造が具体化すると、対抗上、西部線にも流線型車両が必要となった。この為850形の増備にあたり、急遽、全面を昭和 10年に日本車両が南満州鉄道向けに製造した電気式ディーゼル車「ジテ」と似た形態の流線型車両として設計したのではないだろうか。
しかし片側だけが流線型では使い辛い。そこで800形電動車2両から機器をはずして、流線型2編成としたと推測される。なお この850形の竣工は3月3日付けであり、3月16日竣工の3400形よりわずかに早い。ここにも名岐鉄道設計陣の意地の様なものが感じられる。
こうして誕生した850形であるが、もう一つ大きな謎がある。
それは存在していない筈の 854と言う車号を付けた写真が残されている事である。ク2350形には制御車であるものの新製時から集電装置が載せられており、外観上は電動車の様にも見える。が、ク2350形が電動車化された記録は無い。
しかし電動車化の計画そのものは存在した。
西部線の車両不足を補う目的で、昭和15年8月にク2351. 2352をモ853. 854として電動車に改造する申請が出されている。しかし電気機器の手配が出来ず 実施が遅れた上、その準備が出来て工事に掛かれる昭和17年になると、この方針は変更される。その理由は「本車体ハ車体一体流線型ノタメ他車連結運用上制限ヲ受ル甚ダシク不便」な為で、代わりに「運用上便利ナ他制御車」 (ク2300形) を準備機材を使って電動車化する事にした。 こうして電動車化されたのが、モ830形である。
こうした計画が実際に存在した事から、ク2350形が電動車化され、4両共 モ850形として電動車となった様な記述をされる時がある。現実 854の番号を付けた写真があることから、それは事実として受け止められがちである。しかし、問題の 854の写真は電動車化が計画された時期では無く、それよりも前、竣工時の昭和12年に撮影されたものである。新造直後の艶がある車体には854の車号が付けられている。
この写真は名岐間特急 35分運転の宣伝を目的に、当時の PR誌「遊覧名鐵電車」など、昭和12年の印刷物に使用されている。「名古屋 岐阜間を走る流線型電車 超特急35分」の文字が踊る昭和12年3月の「遊覧名鐵電車誌」は奥付に昭和12年3月1日発刊とある。850形の竣工日は昭和12年3月3日である事から、竣工以前かなり早い段階で何らかの目的で854の車番を付けて撮影されたと見るべきだろう。
そしてその直後に改番されたのであろうか。
竣工図には850形の完成が昭和12年2月とある事から、写真を撮影する余裕はあったと思われる。しかし、この時点ではもちろん電動車化はされておらず、その計画も無い。どの様な理由で実際には存在しない車号である854の写真が撮影され、そして宣伝写真に使われたのだろうか。現在では想像すら出来ない。
(名鉄資料館企画展「知られざる名鉄電車史 二つの流線型車両」館内資料より転載)
850形は昭和55年 (1980) 852-2352が廃車(実際は851Fを廃車、852Fを851Fに改番して継続運行)南知多ビーチランド保存(後に解体)昭和63年 (1988) 8月15日 851-2351(元852F)が廃車解体、形式消滅。元852F解体部品の一部は名鉄資料館にて保存。
参考サイト
編集長敬白「ジテとの邂逅」
http://www.hobidas.com/blog/rail/natori/archives/m/post_540.php
中国満州 絶対領域「ジテ現況 2006」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1917/travel/trv-china-2006manshu.htm