3400形 昭和12年(1937)1974.3.17 堀田
名鉄資料館 企画展「新資料発掘!デシ500形と2つの流線型車両」より。
http://www.meitetsu.co.jp/shiryokan/index.html
戦前の名鉄を代表する車両として知られる3400形、国鉄モハ52とは異なり最後までスカートを外さずベルエポックの優美な姿を伝えて活躍し、そのうち1両は平成14年8月まで現役であった。
3400形は昭和12年3月名古屋で開催された汎太平洋平和博覧会に合わせ 3編成6両が新造された。この車両は当初連接車として計画されていたと伝聞で伝えられていたがこの度、新造に係る決済書が発見され、その裏付けを得る事が出来た。
決済書には東部線用(旧愛知電鉄線)用として流線型連接車を新造したい旨稟議され連接車に懐疑的な幹部の意見が書き添えられる等、生々しさある記録となっている。
汎太平洋平和博覧会は名古屋港開港30周年等を記念し、名古屋市南区で昭和12年3月15日から5月31日まで開催された博覧会で、同年は東洋一と言われた名古屋駅駅舎が完成し東山動植物園も開園する等、名古屋が一段と飛躍した記念すべき年であった。
この博覧会は海外から29カ国が参加、僅か78日の会期で 480万人が来場すると言う当時としては平成17年に開催された愛知万博に匹敵する規模であり、同年7月に中国北京郊外の盧溝橋における軍事衝突を機に、日中戦争が始まった事を思うと、第二次大戦前の最も平穏だった時期に開催された最後の大イベントと言える。
この博覧会を控え、大幅な乗客増が予想される事から昭和10年に名岐鉄道と愛知電機鉄道が合併して誕生した名古屋鉄道では車両新造を計画した。「車両製作ノ件伺」と題された昭和11年6月の決済書では次の通り書かれている。
「最近當社線乗客漸増ノ傾向ヲ示シ、省線ト立関係ニアル路線ニ付テハ相當積極對作ヲ講ズルノ要ヲ痛感スル次第ニテ、尚来春開催サルベキ汎太平洋博ハ期的大規模ナル博覧會ニテモ有之、今ヨリ旅客輻輳ヲ豫想サレ『同ジ乗ルナラ心地快適、スピード満点名鐵電車』ヲ一層強化充實徹底セシメ、一段ト旅客ノ誘致ヲ圖ル為メ、博覧會会期前タル来年二月迄ニ完成ヲ豫定ヲ以テ先予算額ニテ客車新造相成儀、可燃哉、御伺」
そして東部線(愛電線)用として「流線型連接車」3列車(1列車2両編成 計6両)を23万9700円、西部線(名岐線)用として附随客車6両を14万9400円で新造する旨が記されている。東部線新造車を流線型としたのは、当時の流行を反映した物であるが加えて旧愛知電鉄の設計担当者がその採用に非常に意欲的であったためと言われる。しかし、車両担当の建設部の意見に対し、当時の電気課長である藤田研一は「連接車ニ関シテハ相当御調査ノ上決定願度」と欄外に意見を書き添えている。
3400形を連接車として計画した理由として、曲線部における乗り心地や 通過速度の向上、台車の数が減ることによる製造費や保守費用の削減といった経済性などが考えられる。また、流線型デザインの元となったドイツ帝国鉄道のフリーゲンダー・ハンブルガー(昭和8年製造)が連接車構造を採用していたことや、製造メーカーである 日本車輌が、昭和 9年に我が国初の連接車として京阪電鉄向け60形「びわこ号」 翌昭和 10年に南満州鉄道向けとして、電気式ディーゼル車 「ジテ」を製造しており連接車の製造実績を有していた事が背景にあったと思われる。反面、高速電車を連接構造とすることは我が国初であり、実績も乏しく、さらに保守の手間がかかる事からその採用はかなり冒険だったと想定される。
残念ながら、この連接車の計画図は当社や メーカーの日本車輌には残されていない。台車中心皿間の距離を後の3400形の12mとした場合、車体長は15.4m(連接器除く)編成長でも32mとなり、後の3400形の38mと比べると車体長は 80%強でしかない。しかし、不況により計画時の豊橋線の乗車数は1両でも充分な程であったと伝えられており、連接化により車体長が短くなることの問題点はさほど無かったかとも思われる。車体長を32mとして想像図を書くと下図の様になる。
結果的に連接構造は見送られ、最終的な車体デザインは昭和11年7月に決定、車体は翌12年3月16日に竣工 17日に試運転を行った。その様子は新聞でも報道され当時の国鉄(鉄道省)を代表する列車である『特急「つばめ」より速い』と言う記述も見られる。営業運転開始は博覧会開催よりやや遅れ、3月20日に 3401.3402編成、4月15日に3403編成であった。
こうして登場した3400形の特徴は 前面に高価な曲面ガラスを用いた流線型の外観や車体全幅幌による編成の美しさに加え、室内は全座席クロスシートで室内灯カバーは行灯をモチーフとした優雅な和風デザインであった。機構的には制御装置に東洋電機S-515Aを用いた回生制動を備え、台車はD-16であるが 軸受けには当時珍しかったローラベアリングを採用していた。また電動機は 芝浦製作所製の150馬力SE139Cで歯車比が1:2.64であることから高速性能に優れ、平坦線では 120km/hを出す事が出来たと伝えられる。
回生制動は本宿での勾配区間の抑速を目的に、直巻モーターをエキサイタで他励するもので、電磁スイッチで制御した。仕様書には以下のように書かれている。
「制御装置ニ回生制動装置ヲ附シ、カ行ノ直列接続 5ノッチノ位置ニオイテ主幹制御器ノ回生レバーヲ使用スルコトニヨリ、電動機ノ主界磁ヲ他励磁気ニヨリ励磁シ電動機ニ誘起電壓を発生セシメ、ソノ電壓ガ電車線電壓ヨリ高クナレバ回生開始シ、制動ヲ行ウヲシテ、主幹制御器ノノッチノ変更ニヨリ広キ範囲ニワタリ (毎時100kmヨリ40km間)回生制動ヲ行イ 上リ勾配移リクル時ハ自動的ニ力行トナル装置トス」
しかし、意欲的な試みであった回生制動も当時の豊橋線は列車本数も少なくて有効に機能せず、逆に赤坂変電所の水銀整流器に悪影響があったとも伝えられている。
3400系は昭和25年12月にモ3450形を加え3連となった。しかし、この時に電動機が他のAL車と同じTDK528に変えられ、同時に歯車比も1:3.21となった事から加速力が向上した反面、高速時の性能が低下している。
他車との連結が出来ないことから戦後は津島系統の普通列車用として使われていたが3連化によって名古屋本線の特急に運用される様になった。昭和28年9月にサ2450形を加えて4連となり、昭和42年には車体の全面更新が行われた。
昭和63年に3402.3403編成が廃車になったが、残る3401編成は2連化され動態保存的に使用された。平成4年鉄道友の会エバーグリーン賞受賞に合わせ、塗装が登場時の濃淡グリーンに戻され、さらに平成6年には冷房装置を取り付け最後まで急行列車に活躍する等、往年の健脚を披露しファンの人気を集めた。平成14年8月のさよなら運転を最後に現役を引退し、現在3401が舞木検査場内に保管されている。名鉄資料館企画展「知られざる名鉄電車史 二つの流線型車両」館内資料より転載
3400形ラストラン(2002.8.17 gop 撮影)
http://blog.so-net.ne.jp/987/2006-04-30-1
参考サイト
財団法人 名古屋都市センター「汎太平洋平和博覧会」 (pdf)
http://www.nui.or.jp/news_letter/16/pdf/vol62-1.pdf
国土交通省 名古屋港湾事務所「名古屋汎太平洋平和博覧会」
http://www.nagoya.pa.cbr.mlit.go.jp/meicall/vol8/musubu.html
名鉄3400系電車 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E9%89%843400%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A